ウィーンで最初に酒が注がれたのは1873年、万国博覧会の会場でした。多くの来場者がどこかへ向かう途中に通り過ぎただけの、小さな展示館で。街はそれを一度味わい、記憶の隅に置き、そのまま百五十年何もしませんでした。
私たちが始めたのは2021年、ザケ・ウィーンという名前でした。ウィーンの地下室、山のような文献、そして四年分の試験醸造。その大半は、やってはいけないことを教えてくれました。2025年10月1日、日本酒の日であり、日本では伝統的に造りの季節が始まる日に、クラ・ウィーンとして開き直し、商業生産を始めています。
ウィーン初の蔵であり、ヨーロッパ全体でも数えるほどしかない酒蔵のひとつです。

最初の試験醸造から、造りの季節と名前を持ち、選ばれた飲食店や酒販店の棚に並ぶ蔵へ。
はじまりは、ゼロから建てた蔵と、見よう見まねで済ませずきちんと学ぶという決断でした。頼れる酒造りの伝統がない街で、四年の調査と醸造と作り直し。
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2021年にザケ・ウィーンを立ち上げたマティアス・シュヴェーガーは、大阪の大門酒造で学びました。その道のりで、大門康剛氏、マーカス・コンソリーニ氏、シェティル・ジキウン氏が惜しみなく知識と経験を分けてくださり、のちにクラ・ウィーンとなるものの土台ができました。
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日本酒の日。ウィーン三区バルムヘルツィゲンガッセで、クラ・ウィーンとして新しい章を開きました。友人と支えてくれた人たち、そしてタンクには仕込みたての酒母。
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私たちの酒は少しずつウィーンの外へ出ています。オーストリア、ドイツ、オランダ、イタリアの選ばれた飲食店と酒販店へ。小さな歩みですが、私たちには大きな一歩です。
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ヨーロッパから招かれた唯一の蔵として。純米無濾過、マルメロ、純米無濾過清酒の三本を携えて日本へ渡り、この技術を借りている相手のみなさんに注ぎました。
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仕込み場の上の神棚。ここでやっていることの大半と同じく借りものですが、いい加減には扱いません。
蔵とは建物である前に、幾組かの手のことです。
米が冷えたか、酛ができたか、醪が言うべきことを言い終えたか。決めるのは杜氏です。その役はマルクス・チェナールが担い、どのタンクについても最後の判断を下します。
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蔵人の仕事。洗い、蒸し、返し、運ぶ。酒造りの三分の二を占める、地味な部分です。米は待ってくれないので、朝六時から始まります。クラ・ファーメンツを支える三人のひとりフレート・クラーニヒも、机よりホースを握っていることのほうが多いくらいです。
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日本では長いあいだ、女性は蔵に入れませんでした。その決まりだけは私たちと一緒に国境を越えてきませんでした。おかげでこの蔵はよくなっています。
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最初に造ったのは純米無濾過生原酒でした。火入れも加水も炭濾過もしない、いちばん直截で、逃げ場のない姿の酒です。そこから少しずつ幅を広げてきました。
金鯱1873は金の鯱。1873年のウィーン万国博覧会で、この街が初めて日本酒に出会った年に因みます。青鯱は青、夏のための酒。緑鯱は緑、まだ形を探しているところ。鯱はこれからも増えていきます。
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マルメロと、蔵に取り置いてある熟成酒を一緒に漬け込みました。当時「火のない熱」と書いた酒で、東京まで持っていった一本でもあります。
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いまは穏やかな火入れの技を学んでいるところです。あわせて発泡性を試し、一部を熟成させ、ときには誰も思いつかない方向へ酒を振ってみる。純米無濾過生原酒は変わらず蔵の真ん中にありますが、もう蔵のすべてではありません。
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「伝統のためにこそ、型を外す。」